『感じない男』書評
  『感じない男』書評   適当にサイトを巡っていた時に、面白いと紹介されているのを見つけ、この本の存在を知りました。   読んでいる最中、色んな意味で、何度も笑いが込み上げてきました。   このページでは、特に印象深かった部分(灰色フォント)をいくらか引用して、   そこから自分が何を考えたかを書こうと思います。   私はあえて一人称で語っていく。   本書は、著者自身の体験を基に考えることで、男のセクシュアリティを探究していました。   この分野に携わる学者がせねばならないことは、例外の存在をほのめかしつつも、   一般論を明らかにすることだと、Tissは思います。   しかし、一般論を導出するのは非常に困難ですし、自分を棚上げにした論理には説得力がありません。   そこで著者は、一般論への直接的アプローチを避け、自分の体験を例に挙げることで   ワンクッション置き、論理に説得力を持たせようと試みたのだと思います。   この手法はとても合理的だと思いますし、他の学者も見習うべきだと思います。   ただし、このワンクッションアプローチは、万能ではありません。   「なるほど」と思った箇所もありましたが、本書で述べられていた主張の全部が全部、   賛同できるものではありませんでした。   ワンクッションアプローチで論理展開する場合、その限界を認めることが必須条件なのです。   読み進める内に「著者はこのことに気付いているのだろうか」と疑問を抱くようになりました。   終盤に、   私がいま読者に望んでいるのは、では読者自身はどうなのかということを、   みずからに問うてみてほしいということだ。   また私が研究者に望んでいるのは、もし私の仮説が間違っているのであれば、   そのかわりに、研究者自身による新しい考え方を提唱してみてほしいということだ。   セクシュアリティの問題に、一般的な解答はない。   読者ひとりひとりが自分のこととして考え続けなければならない。   と書かれていましたが、散見する学者にありがちな自信たっぷりの語り口を目の当たりにすると、   とても本当に気付いているとは思えませんでした。   ●第一章『ミニスカートさえあれば生身の女はいらない!?』   ミニスカの特徴は、単にスカートの丈が短いということだけではない。   ミニスカの裾から、ひょっとしたらパンツが見えるのではないかという妄想が、   男の頭の中をかけめぐる点が大事なのである。(中略)   私が実際にこだわっているのは、ミニスカからパンツが見えるかもしれないという、   まさにその一点なのである。   ミニスカの中が見えてしまったとき、そこに女性器があらわになっていたとする。   そのときに、私は欲情するだろうか。   答えは、ノーだ。   欲情しない。   私の欲情装置からすれば、ミニスカの中身は、白いパンツに限る。   第一章は、論文の細部に修正を加えたものだと書かれていました。   日頃、実験の結果を羅列した論文にしか目を通さないTissにとって、   こんな論文を発表できる場の存在は、大きな驚きでした。   ●第二章『「男の不感症」に目を背ける男たち』   第二章も、論文を基にしていると書かれていました。   ここでは、   私は射精によって絶頂感を味わったことは一度も無い。   射精の後には、なんとも言えない空虚な感じが残るだけだ。   多くの男が、同じような体験をしているのではないか。   (私を含め)彼らは不感症なのではないか。   と主張した上で、男がマスターベーションをする理由や、ポルノは男にとって何なのか、   などについて書かれていました。   なにかしら「不安」な気持ちになったときに、マスターベーションをしているような気がする。   いろんな原因で、気分が落ち着かなくなったときや、好きな音楽を聴いても、   おいしいものを食べてもその不安が消えないときなどに、   私はエッチなことを考えてマスターベーションをすることがある。(中略)   気持ちがささくれ立って、誰かをいじめてやりたいな、傷つけたいなと感じたときに、   それをエッチな気分に結びつけているような気がする。   Tissがオナニーする動機は、「何となくしたくなったから」か「興奮したから」です。   オナニーをすることでストレスを発散しているとは意識していません。   オナニーを我慢するとストレスが溜まってしまうので、   定期的に湧き上がってくる性欲に従い、オナニーをしています。   射精行為そのものに絶頂を得られるかどうかで不感症かどうかが決まるのであれば、   Tissもきっと不感症だと思いますが、同じ不感症でも、Tissは著者と違って、   不感症であることを気にかけていませんし、オナニーを否定的に捉えてもいません。   少しでもオナニーライフを充実させるために、   より気持ちよく射精できるオナニーを探索している方々には、   強い親近感を持ち、時には尊敬の念すら抱きます。   現状に甘んじることに対して、Tissは何の不満も感じていません。   それゆえ、著者の変わりたいという願望は、イマイチ理解できません。   ポルノの根っこにあるのは、女性への憎悪と支配欲であると、フェミニズムは指摘してきた。   それはたしかに正しいと私も思う。   ではなぜ、このような感情が、男の中に生まれてくるのであろうか。   私は、ほかならぬ「男の不感症」が、その原因のひとつなのではないかと考えている。   なぜかと言えば、射精のたびに、「感じない男」は自分が不感症であることを   思い知らされるわけなのだが、それに引き替え女のほうを見てみると、   どうして女だけがあんなに気持ちよくなれるのだ、という疑問がふつふつと湧いてくるのである。   男はセックスのたびに小便のような快感しか得ていないのに、どうして女にだけ、   あれほど豊かな快感が許されているのだ、という怒りがこみあげてくるのだ。   「感じる女」というものが許せなくなるのである。   表現は暴力的ですが、ポルノが男の支配欲を満たすものであるというのは、   Tissも正しいと思います。   サディストを自認するTissの支配欲は、かなり大きいでしょう。   エロ妄想では、常に自分が主導権を握っています。   でも、「感じる女」を憎悪したことはありません。   羨ましいと思うことはあります。   しかし、男と女は身体の作りが違うのだから、   快楽の感じ方が違うのは仕方が無いことだと思っています。   そして、男として生まれたからには、自らの手で、女を乱れ悶えさせたいものだと思っています。   そうすれば、艶かしい反応を見ることで高揚感を獲得するだけにとどまらず、   自分がヒーローになったかのような充足感・達成感をも獲得できるのではないかと考えています。   UPしたテキストをよく読んで下さっている方はお分かりだと思いますが、   Tissは陵辱モノが嫌いです。   2003年11月22日のメモ帳では、アダルトビデオにおいて、   『ロリ=監禁or鬼畜プレイ』という図式が確立されていることに、強い不快感を示しました。   このことは、Tissが女性に対して憎悪の感情を持っていないことの   証明になるのではないかと思っています。   ●第三章『私はなぜ制服に惹かれるのか』   第三章では、制服少女に萌える男の心理と萌える理由が分析されていました。   制服に清涼感とゾクゾク感を感じたとき、   私の中にはどのような性的衝動が沸き起こっているのだろうか。   それは、少女の制服に精液をかけたくなる衝動ではないか、というのが私の仮説である。   制服に精液をかけて、精液が生地に染み込んでいくのを見てみたいという衝動が、   私の中にあるのではないか。   制服を着ている少女の肌に精液をかけたいのではない。   そうではなくて、少女が着ている制服の生地に精液をかけたいのである。   もっと正確に言えば、制服そのものに精液をかけたいのではない。   そうではなくて、「少女が制服を着ている」という状況そのものに向かって、精液をかけたいのである。   その結果として、精液は、制服へと着地するのが望ましい。   少女の肌には届かない、というこの未達成感が大事なのである。   初めてこの箇所を読んだ時、冷笑とも苦笑とも取れる笑みを浮かべてしまいました。   そしてそのすぐ後に、敬意が芽生えてきました。   恐らく、Tissが『フェラチオ→顔射or口内発射&ゴックン』のコンビネーションに、   並々ならぬ憧れを持っているように、著者は制服少女の制服を精液で汚すことに、   思い焦がれているのでしょう。   地位も本名も顔写真も公開した上で、誰もが自由に読める書籍に、   このような自らの性的情熱を曝け出した勇気に、Tissは賛辞を送りたいと思います。   制服少女において、もっとも重要なパーツは、制服、顔、白パンツである。(中略)   制服少女が白いパンツをはいていたら、どうしても多少は汚れてしまうはずである。   ところが、写真集の白パンツは、純白に輝いており、まったく汚れてはいない。   つまり、普通ならば汚れているはずのものが、実はまったく汚れていない、   ということをいちいち確認する作業、それが白パンツのパンチラではないだろうか。   私の感覚で言えば、白パンツの向こうにあるべきものは、まったくつるつるの皮膚、   すなわち性器の完全な不在であるように思われる。   白パンツの向こうに性器が存在しないから、白パンツは汚れないのだ。   すなわち、なぜ白パンツなのかと言えば、「制服少女のパンツの向こうには   性器が存在していないかもしれない」という妄想を、   純白のパンツがもっともごまかしなく保証してくれているように思えるからである。   Tissも純白パンティは大好きです。   でも、明らかに全く汚れていない白パンツには、あまり惹かれません。   その不自然さが鼻についてしまうからです。   パンツに限らず、衣服全てにおいてそうです。   真新しくゴミ一つ付いていない服装をした少女よりも、   何度か洗濯した感じが窺える服装をした少女の方が、   生活感が漂っていて、好ましく、かつ身近に感じられます。   これは、Tissが少女写真集を買う気にならない理由のひとつです。   (このことに関しては、後ほど改めて書きます)   さすがに白パンツから性器の不在を妄想したことはありませんし、   その妄想がより強い性的情動を引き起こすとも思えませんが、   著者のこだわりは、それなりに理解できます。   しかしながら、尿などの排泄物で汚れた下着の実物や、   その画像を見て興奮する方の気持ちは、ほとんど分かりません。   普段は拝めないぐらい汚れた下着を見ることで、   その女性の秘密を垣間見ているような気がして、感情が昂るのでしょうか?   う〜ん、謎です。   性的嗜好は、誠に多種多様ですね。   潔白パンツ派と汚れパンツ派が対談したら、きっと激しい議論が繰り広げられるでしょうね。   ああ、見てみたい!   現実と虚構を混同した男が、生身の女に大きな被害を与えてしまうことも多い。   制服を着て歩いている少女に、売春をもちかける男も出てくるし、   制服少女のスカートの中を実際に覗いて逮捕される男も現れる。   これらの男は、生身の女のことを、歩く少女画像くらいにしか考えてないのである。   目の前の女には、意思も感情もあるのだということを忘れているのだ。   少女画像と生身の少女とでは、全然違います。   2004年10月18日のメモ帳でも書いていますが、少女は生が一番です。   歩く少女画像とは、つまるところ、少女の動画ですが、   生の少女は動画と異なり、プログラムされていない動きがありますし、   同じ瞬間は二度と再生できません。   そのことは、売春ブローカーも盗撮人間も、分かっていると思います。   意思・感情があることを忘れているのではなく、相手の意思・感情よりも、   自分の意思・感情を優先してしまっているのだと思います。   現実と虚構の混同は確かにあると思いますが、そのことが、   著者が指摘するほど、少女の見方を変えているとは、Tissは思いません。   いま仮に、日本中からセーラー服とブレザーがすべて消えてしまい、   そのかわりに、たとえば迷彩柄の服が多くの中学校・高校の女子制服に採用されたとする。   そしてその状況が二十年ほど続いたとする。   このとき、セーラー服やブレザーに性的に惹かれていた男たちは、   新たな制服である迷彩柄の服にもまた性的に惹かれるようになるのだろうか。   私ならば、おそらく、新しい制服にも性的に惹かれてしまうだろうと思われる。   なぜなら、私が若いときには、ブレザーにプリーツスカートの制服はあまり見られなかった。   ほとんどはセーラー服だった。   しかし時代が変わって、ブレザーにプリーツスカートが主流になってくると、   私の中にもそれに対する性的な感受性がいつの間にか養われてきたという事実がある。   だとすれば、将来、迷彩柄の服が主流になれば、私の中の性的な感受性も、   またそれを受け入れるように変化していくだろうと考えられるのである。   制服が魅力的なのは、制服そのものに魅力があることはもちろんですが、   それ以上に、制服が少女の代名詞であるかの如く、強く少女を連想させるからです。   もしも著者の例えが現実になったら、Tissは、   迷彩柄の制服を、少女を象徴するものとして見るようになるでしょう。   ただし、迷彩柄の制服を好きになるとは思えません。   なぜなら、たとえ少女の制服になることで付加価値が付いたとしても、   それを好むかどうかは、生来持ち合わせている感受性に左右されるからです。   事実、Tissはブレザーが指定制服の中学・高校で過ごしましたが、   どちらかというと、セーラー服を好みます。   同様に考えると、迷彩柄の制服が主流になったら、元々、迷彩柄が好きではないTissは、   制服といえばセーラー服かブレザーだった古き良き時代を懐かしむだろうと思います。   買春事件を起こした教師たちは、学校では指導熱心な教師だったと報道されることも多い。(中略)   教師による女子生徒の買春事件の多さは、(中略)   教師にはロリコンが多いという説だけでは、説明が付かない。   そうでしょうか?   Tissは、そうは思いません。   これはチャット会を通じて実感したことですが、   ロリコンは、警察の御世話になり、職を追われることを非常に怖れています。   それはロリコン教師であっても同じだと思います。   ロリコンは、やめようと思ってやめられるものではないので、   教師であっても、ロリコンである以上、少女に対する性的関心が尽きることは、まずありません。   半日を少女と同じ場所で過ごしているため、かえって欲望は大きく膨れ上がるでしょう。   すぐ傍に可愛い少女がいる。   少女も自分に好意を持っているようだ。   仕事柄、少女と接する機会が多いから、少女の心理が普通の大人よりも分かる。   巧く言いくるめれば、やれるかもしれない。   そんな悪魔の囁きから逃れるために、仕事に没頭するのだと思います。   それでも抑え切れなかった欲望を、買春という形で解消するのではないかと思います。   傍から見れば指導熱心なロリコン教師が買春に走るのは、少しも不自然ではないと思います。   なお、よく言われる、自分の本性をカムフラージュするために良き教師を演じていたのだ、   という精神分析が当てはまる事例は、本当は極少数に留まるだろうと思います。   制服少女の写真集を眺めると、気づくことがある。   写真集の少女たちは、制服を着て、こちらを向いてにっこりと微笑んでいる。   あるいはあどけない表情をして、こちらを見つめている。   彼女たちは、まるで、「私のことを洗脳して!」「私のことを、あなたの好きなように   洗脳してもいいのよ!」と言っているように私には見えるのである。   制服少女の清涼感とゾクゾク感の秘密も、いまや明らかになる。   すなわち、制服少女を見たときに、私が抱いてしまうところの、   「ああ、私はこの少女を洗脳してもいいのだ。この少女の脳の中身を書き換え、    私のことを本気で好きになるようにマインド・コントロールし、    メイドのように従わせることが許されているのだ。    そういう危ないことをしても、誰からも非難されないし、この少女本人がそれを望んでいるのだ」   という自分勝手な妄想こそが、制服少女の清涼感とゾクゾク感の秘密だったのである。   これは全くもってその通りだと思います。   少女の表情や仕草を、自分の都合のいいように解釈するのは、妄想オナニーの基本です。   そうしないと、自分にとって淫靡なストーリーが、心の中で描けませんから、   少女写真集をオカズにしてオナニーするのは不可能です。   このことは男にとっては常識ですが、御存知でない女性は意外に多いのかもしれません。   そう考えると、改めて出版物に記したことは、とても意義があったのかもしれません。   現在では、肉体レベルでの処女信仰はそれほど強くない。   中学生や高校生で性体験をする少女が、かなり増えてきた。   だから、制服少女が肉体的に処女であることを、男たちが要求しているとは思われない。   そのかわりに、男たちは、肉体の処女ではなく、脳の処女、すなわち性的に「未洗脳」であり、   これからいくらでも脳に刷り込みができる少女というものを、求めるのである。   彼らが求めるのは、このような「脳の処女」であり、かつ「私のことを洗脳してもいいのよ!」と   みずから洗脳を志願しているように見える少女なのである。   そしてその洗脳の志願の証こそが、彼女の着ている「制服」なのだ。   すなわち、男たちから見れば、少女が制服を着て街を歩いているということは、   「私のことをあなたの好きなように洗脳してもいいのよ!」と公言しながら   歩いているようなものなのである。   Tissは、処女であることを強く要求しています。   Tissと同様に、処女を切望しているロリコンさんはいらっしゃいますし、   処女を肯定的に考えていないロリコンを、Tissは知りません。   つまり、著者の理論が正しいと仮定すると、ロリコンは脳の処女だけでなく、   肉体の処女をも求めているということになります。   したがって、著者は、制服フェチとロリコンを同列に見なしていましたが、   制服フェチの進化(退化?)の先にロリコンがあるとするのが正しいことになります。   言うまでもなく制服は一目で分かる少女の証ですから、男は制服少女を洗脳する対象として見ますが、   制服を洗脳の志願の証とするのは、いささか強引な気がします。   少なくとも、自分が制服着用を洗脳志願の証として見ていることを   自覚している男は、ほとんどいないのではないかと思います。   また、先ほどと同じく、著者の理論が正しいとすると、   ロリコンは、可愛い少女であれば、制服だろうが私服だろうが一向に構わない男と見なせるので、   やはり、制服フェチの進化(退化?)の先にロリコンがあると言えるでしょう。   ●第四章『ロリコン男の心理に分け入る』   私はロリコンの気持ちが分かる。   これを認めないかぎり、ロリコンの心の内在的な解明は不可能なのだ。   もちろん私は現実に少女と性的にかかわったことはないし、かかわろうとしたこともない。   だが、性的興味が私の中にほんの少しでもあったことは事実だと、正直に認めざるを得ない。   歯切れの悪いこと、悪いこと。   わざわざ過去形を用いて、ロリコン「だった」ことを消極的に認めています。   不感症や制服萌えを認めた時とは随分違いますね。   著者がロリコンであることに対して致命的なマイナスイメージを抱いていることは一目瞭然です。   どんな性質のロリコンであっても、少女に惹かれる自分の気持ちを   否定しようとしている者は、ほとんどいないと思われます。   なぜそんなことが言えるのかというと、サイトの運営を始めてから2年程度になりますが、   そんなロリコンと言葉を交わしたことは、一度も無いからです。   つまり、著者は極めて特殊な存在と言えます。   この四文を読んで、果たして著者は本当にロリコンの気持ちが分かるのか、   ロリコンの心理を正しく解明できるのか、Tissは甚だ疑問に思いました。   ロリコンの男を、ここで二種類に分けておきたい。   ひとつは、実際に少女に性虐待をしたり、少女買春をする者たちである。   彼らは、生身の少女を自分の欲望の餌食にする犯罪者であると言ってさしつかえないだろう。(中略)   自分の欲望のために、生身の子どもの人生をずたずたにして平気な彼らのことを、   私はまったく肯定できない。   私は(中略)彼らのような男たちを弁護するつもりはない。   もうひとつは、少女に対して性的に惹かれるものを感じながらも、   生身の少女とは具体的な性的かかわりを持たない者たちである。   この中には、少女の写真やアイドルグループのビデオを集めている男たちも含まれる。   彼らの中には、単にイメージの消費だけで満足している者もいるだろうし、   生身の少女へのかかわりを理性で自制している者もいるだろうし、   生身の少女へのかかわりをいまのところは考えていないだけの者もいるだろう。   もちろん彼らがいつしか犯罪者になってしまう可能性は、ゼロではない。   予備軍がいるかもしれない。   2005年3月19日のメモ帳『チャット☆ウィーク』内容報告最終日などで触れていますが、   Tissは、実際に性犯罪に走ってしまったロリコンも、妄想だけに留めているロリコンも、   本質的に大差は無いと思っています。   今は妄想で我慢できているロリコンだって、背中を押すきっかけがあれば、   少女に手を出してしまうかもしれません。   その可能性は、著者も認めています。   それに、人は生まれながらにして犯罪者ではありませんから、   罪を犯してしまったロリコンも、それ以前は理性で自制していた、   人畜無害なロリコンだったはずです。   それなのになぜ、著者を含めた多くのロリコンは、   違法に少女と性的関係を持ってしまったロリコンを、これほどまでに忌み嫌うのでしょうか?   恐らく、そういうロリコンは、どれだけ望んでいたとしても、   絶対にしてはならない過ちを犯してしまった同志を非難することで、   同じ過ちを犯さないよう、無意識に、自身の心を律しているのではないかと思います。   こうした厳し過ぎるロリコンの目が、悪事に手を染めてしまったロリコンを精神的に追い詰め、   結果的に、再犯を助長させている可能性も否めません。   ニュースを見聞する限り、無反省に生身の少女を性欲の捌け口にしている性犯罪者は稀で、   大多数は、魔が差してしまっただけで、根本的には真っ当な人間だと思います。   Tissは、罪を償って出所してきた同志である彼らに、罵声を浴びせたり、   冷たい視線を投げかけたりするのではなく、「おかえりなさい」と言ってあげたいのです。   こんな風に考えているTissは、ロリコンとして間違っているのでしょうか?   ロリコンのターゲットとなる(中略)少女アイドルグループは、   単なる子どもとしてメディアに登場しているのではない。   小学生をも含む彼女たちは、性に目覚めた少女、   すなわち、見ているあなたとひょっとしたら性的な関係をもつことがあるかもしれない少女として、   様々に演出され、作り上げられているのである。   成熟した大人の女と同じ服装、フルメイク、男を誘うしぐさ、視線、ミニスカ、   へそ出し、太ももの露出、それらすべてがサブリミナルなメッセージとして、   視聴者に浴びせられる仕組みとなっているのだ。   本来、ロリコンは、メディアが法の網をかいくぐって、   巧みに社会のロリコン化を進めていることに気付いています。   サブリミナルなメッセージではなく、あからさまなメッセージとして受け取っています。   こうした動きを歓迎しているロリコンと、冷めた目で見ているロリコンは、   Tissの感覚では、おおよそ半々の割合でいるのではないかと思います。   Tissは、どちらかというと後者に含まれます。   Tissは、メディアの影響で知らない内にロリコンとして覚醒してしまった、   受動的なロリコンを、自分の仲間と認めることに抵抗があります。   同じロリコンにカテゴライズされる人間でも、自らの実体験からロリコンであることを自覚した、   能動的なロリコンとは、感性が大きく異なるのではないかと思っています。   これは偏見でしょうが、世の性犯罪の大半は、容易く感化される=心が弱い、   受動的なロリコンによって引き起こされているのではないかとさえ、思っています。   はっきり言って、罪を犯したロリコンとそうでないロリコンで区別するよりも、   受動的なロリコンと能動的なロリコンで区別する方が納得できるくらい、   Tissは彼らに仲間意識を持てません。   彼らは真のロリコンではないと思っています。   ロリコンの男をターゲットにしたと思われる(中略)写真集では、   九歳や十一歳の少女はメイクをしており、唇にはっきりと口紅が塗られていた。   そして、水着写真などでは、大人のグラビアアイドルと同じようなセクシーな姿勢と表情をしていた。   これは(中略)「子どもなのに大人の女と同じように扱ってもいいのだ」   というメッセージを付加しているのである。   少女の年齢を引き上げるための「印象操作」(見た目をごまかすこと)が、   口紅であったり、大人顔のメイクであったり、挑発的な姿勢であったりするのだ。   確信を持って言えます。   真のロリコンは化粧を嫌っています。   少女は少女らしく、すっぴんでいて欲しいと願っています。   少女写真集を積極的に買い集め、愛用しているのは、受動的なロリコンだけです。   能動的なロリコンは、興味本位で購入してみたものの、その内容に失望してしまっているか、   そもそも買おうなんて露とも思ったことがないかのいずれかです。   著者が指摘するように、社会のロリコン化は確かに進んでいると思いますが、   その環境の中でロリコンになった男達、つまり受動的なロリコンと、   能動的なロリコンとの間には、大きな隔たりがあります。   このことはロリコンを語る上で非常に重要なことだと思います。   ところで、先ほど、少女写真集にTissが惹かれない理由として、   「現実には考えられないほど清潔過ぎる服装」を挙げましたが、   この、やたらと大人びた格好や仕草をさせた「作られたエロス」も、理由のひとつです。   ミスマッチを逆に楽しんでいるロリコンもいると思いますが、   度量が狭く不器用なTissは、どうしても違和感を拭うことができません。   ロリコンの男たちは、少女が大人の女へと脱皮する瞬間というものに、異様に執着しているのである。   「大人の女」に執着しているのではない。   大人の女が出現する「瞬間」というものに執着しているのである。   違います。   ロリコンは、大人が失ってしまったものを持った美しい存在である少女に、魅力を感じているのです。   つまり、ロリコンは、少女と大人の女を、別物として捉えているのです。   それゆえ、ロリコンは、成長後への期待は微塵も持たず、   成長するという事実から必死になって目を背け、ずっと今のままでいて欲しいと願っているのです。   ロリコンが執着しているのは、大人の女が出現する「瞬間」ではなく「直前」なのです。   「瞬間」では遅過ぎるのです。   大人の女が出現する「瞬間」とは、少女が少女特有の魅力を失う「瞬間」であるため、   その「瞬間」を待ち望んでいるロリコンは、誰一人としていないはずです。   私の意識の底には、ひとつの思いが沈殿している。(中略)   本来ならば「女の体」のほうに向かって開花しているはずだったのに、   何かの間違いで、私は「男の体」のほうに舵を取ってしまった、   いや、自分の意思とは無関係に無理やり舵を取らされてしまったのではないかという思いである。   (中略)なぜ、間違って「男の体」のほうへと来てしまったという思いがあるのかというと、   私は思春期以来、自分が「男の体」を持っているということを自己肯定できなかったからである。   体が大人になるにつれて、男性ホルモンがどんどん作られるようになり、筋肉が付き、   体がごつごつしはじめ、毛がたくさんはえ、精液で汚れ、体の中から変な臭いが立ちのぼってくる。   自分がそのような体になっていくことを、私は思春期に、どうしても受け入れられなかったのだった。   いまでも私は、自分が「男の体」を持っているということを、   「それでよかったのだ」と心底から思うことはできない。(中略)   私のように感じている男は、実はたくさんいるのではないか。   本書を読んだ方に「全てのロリコンが「男の体」にコンプレックスを持っている」   と思われるのは心外なので、強調しておきます。   Tissは、自分が男であることをそこまで否定的に考えたことはありません。   むしろ、男に生まれてよかったと思っています。   嗜好発生の原因を辿れば、何らかのコンプレックスかトラウマに帰結するものですが、   それは、時代や生活環境や人となりなどが、   複雑に相関して生まれるものなので、特定することはできません。   したがって、コンプレックスあるいはトラウマに原因を求めるのは、ナンセンスだと思います。   この後は「えええ?そうなの?」と首を捻ってしまうような理論が展開されていました。   あまりにも突飛に感じられて、コメントする気すら起きませんでした。   ●第五章『脱「感じない男」に向けて』   第五章前半部では、著者がどんな経緯で自分の体を愛せなくなったかが語られていました。   よく言えば繊細、悪く言えば神経質な著者の性格が、告白を通じて伝わってきました。   男の第二次性徴の核心である精通(はじめて精液が出ること)の体験を、   私はまったく孤独の状態で迎えなければならなかった。   私は誰にも相談できず、また相談する気にもなれず、   ひとりでこれらのことを抱え込んでしまったのだった。   私は、自分が夢精をしなければならない体として生まれてきたことや、   男の体になっていく自分自身というものを、どうしても肯定できなかったのである。   Tissだって、精通は誰にも知られずに経験しましたよ。   きっと、過半数の男が、そうだと思います。   でも、Tissの場合は、くよくよ悩んだりしませんでした。   それどころか、親兄弟や友達に隠れて、考え得る限りのエロ妄想をしながらオナニーする、   その行為に背徳的興奮を見出し、楽しんでいました。   繰り返しになりますが、   「ロリコンになるための必要条件は、射精現象及び身体の男性化をネガティブに捉えていることだ」   という仮説は、間違っていると思います。   自己否定や現実逃避から少女に走るのだと思われるのは、極めて遺憾です。   純粋に少女の美しさに惹かれてロリコンになった男だっています。   Tissは、そういうロリコンの方が、数多くいるのではないかと思います。   本書では、逃げ口上的に、   すべての制服フェチやロリコンを、   「不感症で汚い自分の体からの脱出願望」   という仮説で説明することはできない。   と記されていましたが、文章の構成上、読後にあまり残らないと思われたので、   改めて否定させていただきました。   私は大学に入って一人暮らしを始め、夢精とマスターベーションの世界から脱出しようとした。   女の子との出会いを求めて、合コンをしたり、街をさまよったりした。   だが、まったく予期しない出来事が次々と起きたのだった。   私は同年代の女の子と付き合いたかったのに、彼女たちは私にまったく興味を示さなかった。   そのかわりに、私に性的な興味を示してきたのは、ゲイの男性たちと、年上の女性たちだった。   私はうろたえた。   この続きには、ゲイの男達からどんなアプローチを受けたかが、具体的に書かれていました。   ゲイからの熱烈アタックを経て、制服フェチやロリコンになった男が、   この世の中に一体どれくらいいるでしょうか?   検証するまでもなく、特殊なケースですね。   そんな著者が、自分の過去を基にして一般論を導出するだなんて、どだい無理な話だと思いました。   これらの体験によって、私は自分が「狙われる体」であることを思い知らされた。(中略)   自分が狙われる体だという事実が、私にとっては重荷だった。   私は、「狙われる体」から「狙う体」へと変わらなければならないと思った。(中略)   それまでは筋肉がまったくないモヤシのような体だったのだが、   寝る前に簡単な筋力トレーニングをして、筋肉を少しだけ付けた。   そのおかげで、平泳ぎができるようになった。   最後の一文を読んで、爆笑しました。   平泳ぎって、速く泳ぐとなると技術が必要になりますが、   ただ泳ぐだけなら、最も簡単にマスターできる泳法ですよ。   その平泳ぎができないだなんて、よっぽどガリガリで弱弱しく見えたのでしょうね。   同年代の女性が相手にしなかった気持ち、分かる気がしました。   「感じない男」とは、「男の不感症」や「自己否定」を自分の中に隠し持っておりながら、   そのことからできるだけ目をそらそうとし、あたかもそんなものは存在しないかのように   ふるまっている男のことなのである。(中略)   「感じない男」のどこが問題なのだろうか。   まずは、少しでも暴走すれば、レイプや、少女への性犯罪をおかす危険性がある。   この点は深く認識しておかなければならない。   次に、自分自身を肯定できず、自分の人生を愛せないままに、   生を過ごしていくことになるという問題がある。   そういうことは、ふだんあまり考えないようにしていると思うが、   きっといつかそのツケが回ってくることだろう。   第三に、付き合っている女とのあいだに、ねじれた男女関係を作り上げてしまう危険性がある。   互いに、相手との関係を心底しんどいなあと思いながらも、ずるずると続けていくことになったりする。   著者に言わせれば、ロリコンを自覚しているのに「自己否定」を否定しているTissは、   立派な「感じない男」なのでしょうね。   なんだか口惜しく思います。   第一の問題点は異議無し。   あらゆる男に性犯罪者になる可能性があると考えているTissは、   男は皆、一時の出来心で犯罪者にならないよう、   常日頃から自分に言い聞かせなければならないと思っています。   第二、第三の問題点に関してはノーコメント。   正直な話、よく分かりませんでした。   後半部では、「感じない男」から脱出するためにはどうすればいいかが書かれていました。   要約すると、気の持ちようと他者との対話が重要とのこと。   月に1回程度開催しているチャット会も、「感じない男」とやらから抜け出すのに役立っているのかな?   以上です。   この手の本は初めて読みましたが、なかなか面白いものですね。   相当な箇所にツッコミを入れましたが、試みそのものは興味深く思いました。