『大学生論:第五章』書評
  『大学生論:第五章』書評   この本は図書館で偶然発見しました。   最近のチャット会で話題になることが多かった恋愛について書かれた箇所があったので、   興味を持って読み進めたのですが、驚きの連続でしたよ。   そこに描かれていた大学生像は、Tissとは全く異なるものでした。   90年代のデータを用いて論じていますが、現代の大学生にも、   おおよそここに書かれたような傾向が見られるのではないかと思います。   色々と勉強になりました。   特に印象に残った部分を灰色フォントで引用し、感想&意見を記したいと思います。   博報堂生活研究所(1994)によれば若者の83.9%に恋愛願望がある   ある学生はこう言った。「先生、恋愛っておもしろいね」。   マジで?   そんなにいるんだ、恋愛したがってる奴が。   Tissは残りの16.1%に入ると思います。   やったらやったで面白さがあると思いますが、   「恋愛=面倒臭い」というイメージの方が強いので、積極的に彼女を作りたいとは考えていません。   束縛されるのがイヤなんですよ。   たとえ相手が少女であっても、その気持ちは変わりません。   恋愛感情が強くなれば、束縛を束縛と感じなくなる時が来ると思いますが、   その心境に到達するまで、恋愛を心から楽しむことはできないんじゃないかと思います。   Tissが恋愛を続けるには、恐らく継続的なセックスが欠かせないでしょう。   本来のセックスは「愛情の確認」「愛を深め合うこと」「快楽の共有と追求」が目的ですが、   Tissは「恋愛の煩わしさを紛らす気分転換の手段」として、セックスを行うかもしれません。   悲観的な考え方であることは重々承知していますが、   恋愛に対する期待感は、一般の大学生よりもはるかに小さいと思います。   1992〜1994年に出版された雑誌のうち、発行部数が多く対象年齢層が   15〜25歳のものを男性誌・女性誌とも3冊ずつ選択した。(中略)   そこにみられる恋愛記事をKJ法により類型化し各々の内容を分析した。   男性誌でも女性誌でも、「効果的なアプローチ方法」の特徴として、好意をあからさまに伝える   のではなく、「さりげなく」「におわせる」、あるいは相手が「アプローチしやすい状況をつくる」   といった行動が多く挙げられている。(中略)   さりげないアプローチは、それが好意であるかどうかが「曖昧」である。   よって、恋愛における間接的なアプローチは「駆け引き」としての色彩を帯びていく。   駆け引きとなったアプローチは、相手を傷つけないためという消極的な戦略というよりむしろ、   楽しみのためという積極的な戦略といえる。(中略)   90年代以前の記事では「声をかける」「意中の人を見つめる」といった単純なアプローチが   中心に語られており、何かをプレゼントするときの「演出」に力を注ぐような、   ある種の回りくどさは見出せない。   この「演出」は90年代の恋愛言説において重要視されている。(中略)   90年代の恋愛言説は、さりげなく演出された恋愛を「楽しんでいる」。   言い換えれば、先のわからない「曖昧さ」を楽しみ、「演出」でドラマティックな気分を盛り上げる。   そういった「駆け引き」を長く楽しもうとしているのである。   面倒臭え!!   演出?駆け引き?   ドラマや少女漫画の真似事ですか?   そんな小っ恥ずかしくて気疲れしそうなこと、やってられませんよ。   今時の小中学生少女も、こういう恋愛を楽しみたいと思っているのでしょうか?   だとしたらヤバイですね、このままじゃ付き合えそうにありません。   夢を叶えるためには自分の考え方を変えなければならないのでしょうか?   気を引くための演技までして、自分は少女と付き合いたいのか?   ・・・否、Tissは何よりも自分に正直でありたい。   マイペースを貫きたい。   本音を明かさない、ある意味「他人行儀」とも言える恋愛関係なんて、   Tissはこれっぽっちも望んでいません。   そんな恋愛は「騙し合い」と大差無いと思います。   不健全だと思います。   Tissは理想を追いたいですね。   体よく自分を着飾ったりしない、ありのままの自分を見せた恋愛がしたい。   それが叶わなければ、別に恋愛できなくてもいいですよ。   一生童貞でも構いません。   そういう不器用だけど一途な人生を送れれば、Tissはそこそこ満足です。   雑誌上では異性の魅力として【感覚】【趣味】【価値観】【フィーリング】【雰囲気】   【ノリ】などが合うことが頻繁に挙げられている。   これらをまとめてみれば感覚の類似ということに帰結するだろう。   恋愛とは一般には異なる人間同士がその差異――肉体的・精神的――に   惹かれるという側面を持つと考えられる。   自分にはない個性に惹かれるというのはよくあることだ。   しかし新しい傾向は、あえて相手に同等の感覚を求めるのである。   対等な関係を基本とする友達感覚や、同じ場所にいる仲間感覚が、   恋人として重要な要素となるのである。   もちろん、恋仲になるにはある程度の感覚の類似は欠かせませんが、   友情・仲間意識と恋愛感情を一緒くたにするなんて、Tissには理解しがたいですね。   大人の女性との恋愛も視野に入れているロリコンだと「そうかな?」と思うかもしれませんが、   純粋なロリコンであれば、きっと同じように首を捻るだろうと思います。   ロリコンが少女に惹かれる要因は色々ありますが、   「自分にも大人の女性にも無い、独特の美しさと清純さ」   「年齢にギャップがあるが故に、完全に掴み切れない心」   この2つが主だったものだと思います。   奇跡とも思える完璧な美に対する愛おしさ、分かり合いたくても分かり合えないもどかしさ、   これらを実感しながら恋愛したいと、ロリコンは考えているはずです。   少女と手軽に付き合えるとは誰も思っていないでしょう。   難しさがあるからこそ、少女にアタックして自分のものにしたいという思いが強まるのだと思います。   極めて困難ですが、もしも最初から友達感覚や仲間感覚を共有できていたら、   少女に対する熱意が冷めてしまうため、恋愛に発展しないのではないかと思います。   また、大人の男と少女が対等な関係を築くのは容易くありません。   特に最初の内は、男は姿勢を低くし、少女は背伸びをしなければならないでしょう。   互いが互いに近付くために、無理をしなければならないでしょう。   ロリコンと少女だと、恋愛を通じて感覚を類似させていく必要が生じるのです。   「無垢な少女を俺色に染めたい」とお考えの諸兄は、   「少女を自分の感覚に類似させたい」という願望を抱いていると言えます。   程度に差はありますが、つまりロリコンは感覚にズレがあるからこそ少女に惹かれ、   感覚にズレがあることを望んでいるのです。   90年代の恋愛言説が示す若者像とは正反対ですね。   興味深く思います。   雑誌上において、恋人以外の人とのセックスを扱った記事が目立っていた。(中略)   もともと友情と恋愛感情の区別はむずかしい。   それらを分ける目安のひとつとしてセックスが考えられていた。   恋人とはセックスするが友達とはしない、あるいはセックスをしたら恋人でしないのは友達、   といった認識があったわけである。   ところが、90年代的言説では、一応の目印たるセックスですら、   絶対的に恋人と友人を区別するものではなくなっている。   言説上だけでなく、実際の調査(1992)においても、   18〜21歳の男女の90%以上に異性の友人がいて、   約60%は恋人ではないけれどデートする友人がいるという。   なんて節操の無い!   身体を安売りして何とも思わないだなんて!   Tissの感覚からすると、到底「純愛」とは言えませんね。   恋人以外の人とセックスするのは「浮気」です。   不特定多数とのセックスは、性教育で散々やらないように言われたはずです。   それなのに今時の若者は、コミュニケーション手段のひとつとして、   気軽にセックスをしているようです。   友人に対しても恋人に対しても同じように接し、ほとんど区別しないとなると、   今時の若者には「熱愛」というものは存在しないのかもしれませんね。   昨今の韓流ドラマブームは、失われた「純愛」「熱愛」への憧憬が原因ではないかと思います。   遊びとしての恋愛を指し示す顕著な言葉がある。   それは「友達以上恋人未満」である。   実際にその言葉は、90年代の雑誌記事において頻繁に見受けられる。   「友達以上恋人未満」とは、今は恋人になれない関係性を「友達」という言葉で保留するものである。   恋愛感情を持っている側は、好意を持ってくれない人につき合いを強引に求めるよりも、   「友達」という関係性を保ちつつ恋人に進展する機会を待つ方が「安全」である。   また、恋愛感情を持たれている側にとっても、相手の好意をひきつけておくことが可能であるし、   つき合うどうかを決めるまでの猶予期間にもなる。   どちらにせよ、そこには曖昧さ・不確定さをいやがるのではなく、   むしろ楽しむかのような部分さえ存在する。   90年代の恋愛言説においてもっとも特徴的なのが、   この友達でもなく恋人でもないという「揺れ」を享受する部分である。   上の文章を読んで、チャット会での遣り取りを思い出しました。   もうね、そのまんまですよ。   告白しても望み薄だと思うから、友達という「安全」な立場をキープしつつ、時機を待つ男。   男の気持ちに気付いているくせに、決断できないから、頼れる男友達としてキープする女。   チャット参加者の熱い励ましもあって、意を決して告白する男。   「現時点で(←重要!)あなたと付き合う気はない」と答える女。   その時は緊張状態になったものの、結局は元の鞘に納まる二人。   ・・・90年代の恋愛言説そのものですね。   彼は「一線を越えられそうにない」と嘆いていましたが、   一線を越えられたとしても恋人になれたと言えるかどうか・・・。   雰囲気次第では「日頃の感謝を込めてあなたに処女をプレゼント」という展開も有り得ると思います。   「結末」は「不真面目/真面目」あるいは「終わり/はじまり」という   相反する二つの世界を含み込むものである。   と同時にその正反対の二つの世界を分岐させるポイントでもある。(中略)   結末の持つ二つの世界と、恋愛を楽しいだけのものにしようとする読者の要求は合致しない。   この両者の不一致を解消するために、二つの操作をおこなうことが可能である。   一つは、上で述べたような、結末が持つ両価のうち、好ましい部分だけを強調すること。   【別れは次の出会いのステップである】とする言説はこれにあたる。   もう一つは、結末を回避・先延ばしすることである。   これら二つの操作は、現代的恋愛物語においてともにおこなわれている。   その中でも、実際に結末部分の言説量は少ないことから、   主として後者の操作が多くなされていると思われる。(中略)   いずれは、恋人と結婚する、又は、別れることがわかっているにもかかわらず、   現状を維持し、結婚や別れという最終結論を出さない。   これが恋愛言説の現代的特徴の一つである。   奥手の人間は、付き合う前から結末(結婚あるいは別れ)を懸命に考えてしまうため、   軽い気持ちで恋愛することができません。   悪く言えば臆病者、良く言えば真面目な人間です。   日常的に恋愛している人間は、結末から意図的に目を逸らし、考えないようにしています。   悪く言えば無責任、良く言えば人間的・・・かな?   すみません、いい褒め言葉が見つかりませんでした。   正直、Tissは今時の若者の生き方は歓迎できません。   ここでは引用していませんが、本文には大学生を対象にしたアンケート結果が掲載されていました。   それによると、彼ら自身も現状に満足しているわけではないそうです。   少しだけ安心しました。   本文は以下のように締め括られていました。   恋愛物語の結末を先送りにしながら、ゆらゆらと曖昧な関係性をさまよっているが、   それは恋愛における社会的制度や常識に反発を感じて   それらを変えたり無視したりしているわけではない。   ただ、いずれ結末を迎えなければならない――最終的に何事かを確定していかねばならない――ことは   どこかで自覚しながら、まだ自らを決定しかねているのである。   この両義性を生きること。   これが現代若者の恋愛のスタイルであるといえるだろう。   両義性にともなう「甘い痛み」は、子どもと大人の過渡期にいる   大学生だからこそ感じられるのかもしれない。